My Life Between Silicon Valley and Japan - ボナンザVS勝負脳 (保木邦仁、渡辺明共著): "本書を読み終えて、現時点では渡辺明(23歳)という若き竜王だけが、「コンピュータと戦う」それも「一度限りではなく、コンピュータをも真剣に将棋を戦う相手と認識した上で、長期間、お互いに切磋琢磨しながら戦い続ける」という未来を、自分の人生におけるきわめて重要な問題として、本気で自分の問題として考え抜いている棋士なのだ、ということを痛感した。"
すごい。そうか、将棋って(囲碁って、チェスって)純粋に抽象の、情報の世界の勝負なんだな。それがゲームの実体かに見える将棋盤や駒は、コミュニケーションのための状態記録・表示装置にすぎないんだ。だから、渡辺明をドン・キホーテと見てはならない。将棋の世界ではコンピュータは勝負が成立する敵として立ち現れる(チューリングテスト的な意味ではなく、つまり、一方に実体としての人間を置きそれと似ているかどうかで判断して敵と見なせる、ということではなく)ということを事実としてそれを起点に考えなければならない。限定的ではあるけど、コンピュータがもはや「コンピュータ」ではなくなっている現実がすでに存在する、ということだ。ほかのジャンルではなくまず将棋の世界で、ごく一部の敏感な棋士の前にコンピュータが「コンピュータ」ではなく敵として現れたのは、将棋というゲームが純粋に情報の世界に成立するものだったからだろう(将棋が人間をコンピュータ化するその度合いによって強さが決まるゲームだったから)。つまり、コンピュータが「コンピュータ」のままであるとしたらそれはリアルな世界への現れ方つまりインタフェイスの問題なのであって、それが解消されれば(量的な問題なので多くは早晩解消される)、コンピュータが敵として現れるのと同じ事があらゆる分野において今後起きてくるはずだ。あ、いや、コンピュータと人間が敵対するってことじゃなくて、むしろコンピュータが「人間」として現れるってことだけど。
すこし前の記事だけど、人間とコンピュータあるいは機械との勝負については以下のような興味深い指摘がある。勝負が成立するか、負けが認められるか。チューリングテストの次の次元のテストになるような気がする。それに、「勝負」っておもしろい認知の分野なのにちゃんと研究されてないな。
「情報技術時代の身体」 (Motoe Lab, TU): "会の後の食事中,ロボット対人間のサッカーの話になった。 山中さんは,ロボットが勝つことよりも,人間が負けを「認める」ことの方が難しいだろうという。"
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